秋山誠輝
昭和42年4月19日  朝の御理解



  信心のおかげというのは、丁度盥の水を押すようなものだと言われておりますが、これは信心だけのことではない、そういう一つの理があると思う、盥の水を向こうへ押しますと、水は返って手元の方へこうやって流れてくる、その盥の水をこちらへこう(?)でこう引くと、水は向こうの方へ逃げて行く、これは一つの道理だとこう思う、信心のおかげもやっぱりそういうことが言えると思うですね、「どうぞおかげを下さい、どうぞおかげにして下さいおかげにして下さい」と、という生き方では、本当のおかげにならんようです、そこで、教祖は「我情我欲を放れて真の大道を知れよ」と、ね、という風におっしゃっておられる、我情我欲「あれを下さいこれを下さい」というような、あぁその信心から、真の道を分かるということを、を、知れとこうおっしゃるのです、ね、その真の道を分からして頂く、「真の道が分かりたい真の道が分かりたい」とこう願うところにですね、言わば、それは「おかげを下さいおかげを下さい」というのではなくて、なるほどそこにおかげの頂けれる一つの理というものがあるなということを思います、ね、そこんところはなかなか、あぁ難しいと言やぁ難しい、「おかげ頂きたいばっかりに参りよるとですよ」と言う人も沢山ございますからね、「おかげ頂きたいばっかりに参りよるとだ」と、ね、ですから、なるほどそれでも、まあ神様はおかげを下さるんですけれども、それでは例えば盥の水の押すようなおかげにはなってこないのだ、ね、それは一生懸命とこうやっていわゆる自分の引いておる所だけに水が少し集まるわけであって、本当のことは逃げておるというような感じなんだ、ね、それこそ私共の信心というのが、本当にこの信心の一つの階段とでも申しましょうか、信心とは御利益御利益ということじゃないと、信心とは真の道を教えて頂くことなのだ、信心とは真の人になる道を、教えて下さるんだと、と分からしてもらい、真の道が分かり、真の人間としての、生き方を教えて下さるのだと、というところにです、私は早く気付かせて頂いた人が、おかげを受けると思うですね。
  ですからそういう信心、そういう意味合いにおいて私は、「ここへは信心の稽古にくる所」とおっしゃるのだとこう思うです、「ここへはおかげを頂きくるところじゃない」と、「おかげは我が家で受けよ」とおっしゃる、信心の稽古にさえきておればです、おかげは家でなんぼうでも受けられるようになっとるのだと、それをここにただ「おかげを頂きたいおかげを頂きたい」と言うて一生懸命参ってくることを信心の稽古のように思うておると、間違いますね、信心の稽古とは、どこまでも真の道を求め続ける、本当の信心が分かりたいと、人間としての本当の生き方を教えてもらうということが信心であり、そこんところを稽古することが、合楽通いの値打ちなのであると、分からして頂く時にです、そこんところが段々自分のものになって行く、ね、稽古事というものは、自分のものに、身に付いていくんです、身に付いて行くことの楽しみと、いわゆる合楽通いが楽しみだというのは、そういう信心からだとこう思うのですね、そこには私は限りない、おかげというのは、それは丁度盥の水を押すようなものであった、手元の方への水は、返ってくるような、理のおかげが頂けれる、そこでここに一つ問題があるのですね、「おかげを下さい下さい」と言うたっちゃ、おかげを頂かれんから、「おかげは要りませんおかげは要りません」と、と言うておりゃあ神様がおかげを下さるから、そういうのだというのであってはこれはいけんわけですね、問題はそのへんなんです、「おかげを下さいおかげを下さい」と言うたっちゃ、あその向こうの方へ逃げて行くから、「いいえおかげは要りません、おかげは要りません」ね、そういう例えば心の、もう喉から手が出るほどに欲しい、それでいて「要らん」と言うとるのでは、それは心と実際とが、ね、「口に真を語りつつ、心に真のないこと」ですからおかげになりません、真実信心、ね。
  「我情我欲を放れて真の大道を知れよ」と、我情我欲を放して行くということに一生懸命なり、真の道を分からしてもらうことを楽しみに信心さして頂くのです、次のみ教えに、「おかげは受徳受勝」と教えておられます、ね、そういうような信心、さして頂くのにですね、「いいえおかげは要りません」と言うのが、私はこれは、まあ要らん遠慮である、ね、そういうような生き方になれば神様は下さるおかげはです、もうそれこそなんぼうでも、ね、それこそ器用にそれを受け止めて行くということがおかげなんだ、「いいえおかげは要りません」と、おかげを下さいと言うだけじゃおかげを頂かれんから、おかげは要らんと言う、というのではつまらん、ね、どこまでも一つ人間我情我欲を取らしてもらうところに、人間のいわゆる極楽の、おお、世界と言うか、我が身は神徳の中に生かされてある喜びの世界と言うか、そういう世界を日々の生活の中に味合わせてもらう、「なるほど神様の御守護を受けておるんだな」と「神様のお働きの中にあるんだな」というその喜びに私共が浸らして頂く信心、そこから私は限りないおかげが頂けれる、そのおかげは私、いわゆる「おかげの遠慮は要らん」とおっしゃるのです、ね、おかげは受徳受勝だと、受徳受勝に受けさして頂かなければならん、ね、どうぞ一つ、いつもその盥の水の信心と、盥の水を押すような、あぁ信心と言われております、そんなら「おかげはそりゃ要りません」と言うて向こうにおかげを押しやるというのではなくてです、ね、どこまでも真の道を求めての信心ということになるわけなんだ、ね、我情我欲を放して行くことの、え~、心の助かりと言うか、自分の思いを捨てていくだけでも心が楽ですね、「無為になりたい、いわいにしたい」とこう思うておると、もうそれだけでも心がやるせないです、任せきる心、そこに助かった人の姿があります、ね、「あれも欲しい、これも欲しい」と、それこそ我情我欲でそれを固めていく、ね、そこに私はおかげの受けられない状態があると思う、神様は限りなくおかげを下さるのですから、私は、もう本当にあの、私は素晴らしいと思うんですよね、これ二年間椛目の御造営が、の事がこうしてういういとしてなされてまいりましたが、随分お酒が入りましたですね、けれども本当にそれこそ一本だって一部だって買いませんでした、あの、お、ずっと、おぉ、御直会に、あの二号瓶が付きましたが、あれもありゃ買ったんじゃなかったなかったんだ、全部お供えです、しかも私がですね、もうその、今日ごたる日はもう二級酒で良かっち、二級酒も少し(?)たもんですよ、だからって言うて、冗談のごと今日ごたる日は(?)出すかと、もう私はもう全部特級酒ばかり、(?)特級酒がなくなったというぐらいにつけてしまいました、けれども見てごらんなさい、昨日の月次祭にはまたああして特級酒ばかりが集まってくるじゃないですか、ね、もう本当に限りがないのですよ、ね、と言うてうんなら、要ら~ん事にですよ、ね、例えならお酒ならお酒だけでも、それを湯水のように使う、「はぁいくらでもあるけんで、あんたにもあげましょう、あんたにもあげましょう」というのじゃない、要るところには要るところにです、必要に応じて、ただ悪しげも、良く言えも悪しげもない、気持ちでただとらして頂くだけだと、もう限りなく美しゅうならして頂こうとするそういう稽古をさして頂くだけなんだ、「もうあそこは二級酒で良かがの」ってなんていうわりにです、ね、「どうぞ特級酒の方から上げて下さい」、それでいて特級酒がなくなったら一級酒、それでいて一級酒がのうなったら二級酒付けたらそれで良いんですからね、私は(?)二年ですよ、なら例えて言うなら、ここに果物屋さんがある、それをお客さんが買いにみえた時に、「どうぞ良かつから取って下さい」と言う、ねだからいつもあそこの店に行くと「良かつから取って下さい」と言う、最後まで「良かつから取って下さい」、ところがこちらでもう、「ちょっと悪かつから売らなきゃ後が困るけんで、ちょ悪かつから」よって言うてやる、ね、良かつばっかりじゃなくて悪かつもところどころに入れてやる、そういうことするから、あそこの店は汚いということになるのです、ね、もう限りなくおかげの受けられる道を、遮断するようなもんです、ね、限りないおかげを頂かせて頂くために私共は、盥の水を押すような信心、ね、我情我欲をいよいよ放して行くことの、お~、出来れる信心の稽古の楽しみを持って信心の稽古にここには通うてくるのでなからなければならない、この事ばお願いせんならんから、これが頂きたいばっかりに私は参りよると、という信心からです私脱却して行かなければいけない、本当の信心を目指してからの、ものでなからなければならない、と思うですね。                                        どうぞ。